こどものなかのこども



客観性を無視したマスゲーム的コラム vol.1

Category : Ikenishinji

好き勝手に文章を書くというのは、目隠しの状態で野原を駆け回ったり、筆をキャンパスに適当に走らせたり、ところかまわずカメラのシャッターを押したり、嫌いな人の前で「あんた嫌いだ!」とカミングアウトしたり、無駄な比喩を羅列したり、文字のフォントをいじってコラムっぽくしたりするのと同じくらい自由な行動だ。だから好き勝手な文章を書くときには、多少は客観的にならなければと思ったりする。でないと独りよがりのポンポコピーになってしまう。すでにポンポコピーなどという造語で語尾をごまかそうとしている。好き勝手な文章ってのは本当にポンポコピーなのだ・・・。

でも書くという行為のなかにカタルシスがあることは間違いない。ポンポコピー(気に入ったのでペンネームに決定! 以後、略してポンピー)なんかはカタルシス効果を聖セイヤの小宇宙みたいに視覚で確認できるくらいビシバシと感じている。今まで4年間で6作品ほど小説を書いたが、どれもこれもポンピーにとってはまさに自己療養的な(カタルシス作用に満ち満ちた)作品ばかりである。ただ変わったのが、日を追うごとに、作品を追うごとに客観的になり、自己療養的な、あるいは魂の叫びとも言えるようなストレートな表現は影を潜めた。処女作なんかはひどいもんで、200パーセント魂の叫びだった。読み返すと、「助けてくれ! ぜんぶ世界が、周りの連中が悪いんだ! 俺はちっとも悪くない! なのに・・・なのにどうしてこんなに俺は不幸なんだぁ!」としか書いてないようにポンピーには見える。要するに客観性の「きゃ」の字もないのである。しかし客観性ばかり意識してると自分らしさなんてものはなくなってしまう。客観性を意識するというのはつまり、他人様に合わせることなのだ。他人様はこれを読んでオラをぶったりしないだろうか、まだ父さんにもぶたれたことないのに、などと他人の目を気にしだすと世も末である。没個性、である。客観性なんて重視するより、内なる衝動なんかを解釈して作品に変えたほうがよっぽどアートである。好きなことを好き勝手にやって、それが認められれば万々歳である。しかし人間は純粋なアニマルではなく社会的動物であるから客観性を無視して生きることはできない。わりと客観性を無視して生きているなぁと感心するのが金正日総書記である。大量の他人様を使ってマスゲームなんかするんだから、あいつは自分のことしか考えちゃいない。だけど、だからこそマスゲームなんていう馬鹿なアートが作れるんだろう。(昔の日本でも体育の授業であれをやっていたらしい)

なにはともあれ客観性について書きだすとキリがない。


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