こどものなかのこども



客観性を無視したマスゲーム的コラム vol.2

Category : Ikenishinji

文章を書くと、なんとなく気恥ずかしいのは自分のことを曝けだしているからに他ならない。まさに裸を見られているような気分になる。前回も述べたが、客観性を意識すれば意識するほど、我の弱い文章になっていく。つまり裸ではなく、服を着てしまうのである。しかしあまりに服を着込んでしまうと、見ている側(読む側)からすれば何てことはない文章になってしまう。だから文章を書く上で、いかほどまで自分に服を着せ、いかほどまで自分の肌を露出させるか、というのは常々考えなければならない課題の一つである。

ポンピーが思うに、理想の割合は3パターンあるのではないかと思う。まずひとつは、もちろん真っ裸である。TPOを無視してぶらぶらしながら、どうでも良い私的なことを泣きながら真顔で叫べば、それは説得力の欠片もない素晴らしい作品になるだろう。二つ目は、その逆で、これでもかと言うくらい服を着込むのである。通気性の悪いトレーニング・ウェアに紺色の冴えないダッフルコートを重ね着して、さらにその上から無理矢理に「かりふぉるにあしゅう」とロゴの入ったタンクトップをかぶって、最後にニット帽と濃いサングラスとヨン様マフラーで顔を隠せば、周りの人間はそいつを怪訝な目で見るか、あるいは一目置くことになる。そうすれば我の弱い文章だろうが何だろうが、関係ないのである。自分のいなさすぎる文章というのは、時として見る側(読む側)の想像力を挑戦的に煽り、駆り立てるのである。最後に、これが非常に難しいと思われるのだが、今いる作家のほとんどがこのパターンに当たる。つまり、ある程度は服を着て自分を隠し、はたまた、ある程度は服を着ずに自分を曝すのである。ポンピー個人の意見としては、蝶ネクタイなんかで正装してるくせに、社会の窓からち○こが出てる感じが好きである。この人すごい几帳面だなと思わせといて、ちん○が出てるのである。いやはや理想である。

しかし、いずれのパターンも非常にむずかしい。ポンピーは基本的にきれいに服を着てしまうのである。要するに、一般ピーポーなのである。


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